可児の駅近くのビジネスホテルから、中山道まで約一キロの道のりを戻る。しばらく幹線道路を歩くが、やがて太田の渡しへと道は分かれていく。
太田宿
住宅街の中の歩道をテンポよく進む。しばらく歩くとゆったりとしたカーブが見え始め、曲がり角の内側に、富士浅間神社がある。その富士浅間神社の境内に沿った形で道は下り、太田の渡し場のあった場所へと到達する。今では太田橋がかかり、何の躊躇もなく渡れるが、往時は中山道の三大難所と言われたところになる。
木曽のかけはし、太田の渡し、碓氷峠がなくば良い
対岸の河原には公園があり、太田橋は川幅と同じくらい奥にある大通りまで一直線に伸びている。しかし、橋を渡り終えたすぐのところから、川の土手の上を歩くことができるようになっており、しばらく土手の上を太田宿の近くまで歩く。
土手から降りるとすぐのところに太田宿がある。川越しのために出来たという宿らしく、川に沿って街並みが伸びていく。
宿を出て、しばらくの間土手の上を歩くが再び幹線道路を歩く。木曽川は徐々に両岸が険しくなり、道の端にかろうじて付いている歩道も、崖下を崖にへばりつきながら歩くようになる。
少し先に大きく迫り出した崖が、この先通るの嫌だな、といった感情が湧き起こるほどに迫ってきた頃、中山道はこちら、という案内板が反対車線に見えた。
閉店して少なくとも十数年は経っているであろうレストランの廃墟を横目に、その先に階段が下へ降りている。するとそこには小川のような水の流れがあり、右手を見ると、道路の下を潜るトンネルからその水流は流れていた。
今し方歩いてきた国道の下を潜ると、そこから先は突然山道へと変貌していた。うとう峠を指す案内板があり、今までとはまるで違うのどかな山道がその先に続いていた。
かつては木曽川沿いに犬山方面へ、中山道は抜けていたらしいが、見るからに危険な崖下、そして急流の木曽川沿いを歩くことになるため、峠道に迂回するルートが、その後つくられたらしい。
国道から見上げていた崖の上は、今では公園となっており、うとう峠から先には、団地、住宅街が造成されていた。木曽川沿いから見上げていると、まるで人里離れた急峻な山並みのようにも思えた崖の上には、まるで下からは想像できない広大な住宅地が広がっていた。
うとう峠から先は、上り坂の山道とはまるで対照的な舗装路が続く。それも立派な住宅が並ぶ一戸建ての住宅地の中を歩く。
鵜沼宿
うとう峠から坂を下がり切ったところから、鵜沼宿が始まる。脇本陣跡には、芭蕉が自らの句を手で掘ったという楠の化石が置かれている。
ふく志るも 喰へは喰せよ きく乃酒
すぐ前には菊川酒造が門を構えている。
きれいに整備された鵜沼宿を出るとひたすら幹線道路に沿って歩き続ける。加納宿まで四里も離れている。北にJRと南に名鉄が走る、二つの線路の間に挟まれた中山道を黙々と歩く。
途中、間の宿、新加納宿の中を通る。
鵜沼宿と加納宿の間が遠すぎるため、間の宿として、設置されたらしい。間の宿というのは、案外と数多くあるが、意外にも注目されることは少ない。そのせいか、正式な宿場以上に、間の宿の人たちの力の入れようが際立つ。
こんなところに宿などあったっけ、と思うほど、普通の宿よりも立派な作りであるところが多い。新加納宿はそれほどでもないが、知られていない割には細久手宿などよりは、はるかに立派だ。
加納宿
加納宿と言われても、よくわからないが、今の地名で言うと、岐阜になる。岐阜駅の少し北側には、織田信長の居城でもあった、岐阜城が聳える。
この辺り、秋葉神社がやたらと多い。加納宿の中だけでも、五つや六つはあった。今では秋葉山に登るということは、あまり聞かないが、火事で宿場丸ごと一気に焼け落ちてしまうことが多かった江戸時代などは、秋葉神社の存在感は今以上に大きかったのだろう。
本日は加納宿まで。駅前のホテルに泊まることとした。