Just do it !

踏み出そう。やってみよう。考えるのはそのあとだ。


中山道一人歩き 12日目 大井宿、大湫宿、細久手宿、御嶽宿、伏見宿

大井宿

朝の五時に起きて、前日買ったおにぎりを頬張ると、直ぐに出発の準備を始めた。

カーテンを開けて、外を見てみると、山の方に大きな雲がへばりついてはいるが、少し霧がかかった感じで、空は晴れていた。

朝の六時にホテルを出ると、大井宿の中はひっそりとして、誰一人として外を歩いてはいなかった。

大井宿

つい二週間前に、早足で通り抜けた大井宿のメインストリートを再び歩く。昨日のことのようだが、もう半月も経ってしまったことが信じがたい。

こうした旅の仕方も面白い。日頃過ごしている空間と、旅する空間が離れていると、なんの違和感もなく、先日の続きから再び始めることが出来る。

宿の終わりから先、しばらく国道を歩くが、すぐに線路を越え、高速道路の下をくぐり、山道へと入る。

早速現れるのが、西行坂。奥州を訪れた後、帰り道の道中、西行は大井宿のはずれで三年ほどを過ごしたという。

この坂に入る手前、ここから三十キロ店が無いから、準備をしっかりするようにという警告があったが、実際のところ、ずっと山道だった。文字通り、一日中山道だ。

道は歩きやすい。舗装路が三割、砂利道が三割、土道が三割。石畳の敷かれたところが数ヶ所あった。でも、山道というほどの道でも無い。ほとんどの場所で車が通れるほどの道幅はある。

十三峠

ただ何もない。江戸時代もこのような感じであったのだろうと想像させる。人の作ったものが何もない。そうした意味では、自然をたっぷりと堪能できる。途中から、東海道自然歩道と重なるのだから、当然とも言える。

十三峠というくらいだから、やたらと上り下りが多い。どこから数えて十三峠なのかわからないまま、坂を上っては下る。

西行坂から先は自然の中を歩き続ける。関東近郊でこのような場所は無い。ちょっとした山の頂上を目指して歩く場合には、同じような自然の中を歩くことにはなる。しかし、極端に高い山ではなく、ちょっとした高台に上るくらいの高さのところを、尾根伝いでもなく、ただ水平に歩いていく。

おそらく少し前の日本には、このような場所が全国に広がっていたのだろうが、およそ平らな場所は、都会に近い場所であればあるほど、開発されつくし、このように同じような高度を、上がったり下りたりしながら横に歩いていくということは、願ってもかなわないのが今の日本だろう。

思いがけず、このように自然の中を一日中歩き続けることが出来、自分自身にとっても珍しく、とても新鮮な行程となった。

何があるわけでもない。時々舗装路を横切り、また土道に入り、時々一里塚がある。

槇ケ根一里塚

思いがけない場所に、お地蔵さんがいて、巨大な岩が足下に埋まっていたりする。

しばらく山中を歩くと、やがて舗装された大通りに出る。ほっと一息、といった感じでしばらく舗装路を歩くと、再び山中へと続く上り坂が待つ。

何度も何度も繰り返す。峠と言うには大げさな峠と言う名の坂道が繰り返す。五線譜の上を歩く音楽のようだ。

頭の中ではなぜか、モーツアルトのオペラや、坂道を迎えると早稲田大学の校歌が流れる。

平らなところをテンポよく歩いている時には、軽快な「フィガロの結婚」の序曲が頭の中で鳴り始めるし、しばらく頭の中で鳴り続けて飽きてきた頃に、今度は、「魔笛」の、夜の女王のアリアが流れてくる。別にリクエストをしているわけではないが、ごく自然とその時の気分に合わせて、曲が流れ出す。

中山道とモーツアルトのどこに共通点があるのかと思うが、別に意図して頭の中で歌うわけではない。その風景の中で足を動かしていると、自然と頭の中で鳴り始めるのだ。中山道のテンポとモーツアルトのテンポが私という存在を通して交流していると考えると愉快だ。

少し急な勾配に差し掛かれば、ワセダ、ワセダ、ワセダ、ワセダ、と校歌のリフレインが、モーツァルトの転調にも似た速さでフィガロから瞬時に切り替わり、頭の中で流れ始める。そして、テンポを取りながら、一、二、一、二と坂道を上る。

森の中を歩くので、日は遮られている。上り坂に差し掛かると、途端に心拍数が上昇し、汗が吹き出てくる。平地では百くらいだが、坂道になると百三十を超える。アップルウォッチがその変化を定量的に教えてくれる。

坂道でじんわりと滲み出る汗は、直射日光に照らされてかく汗と異なり、峠付近で吹く、ひんやりとした風がその熱を穏やかに冷ましてくれる。

耳から聞こえてくるのは、風が揺らす木々の音だけだ。でも、頭の中のどこかで、オーケストラとも繋がっている。

西行坂から三里ほども歩き、漸く森が切れると、陽光の下まぶしく光る大湫(おおくて)宿にたどり着く。

大湫宿

大湫宿

宿の入り口からすぐのところに食料品を販売するお店がある。自動販売機で飲み物を買い、中を覗くと人がいる。開いていますか?とゼスチャーで聞くと、どうぞと首を縦に振る。

まだ朝の九時前だったが、五時過ぎにおにぎり二個を食べたきりだったので、お腹が空いていた。これからお店も何もないところをまだ二十キロも歩くので、カレーパンとあんぱんを買ってバッグにしまい込んだ。

どちらからですか?と聞かれて、大井宿からです。これから可児まで行きます、と答えた。時間は十分ありますね。どうぞお気をつけて、と送り出してくれた。

大湫宿

ずっと山の中を縫うように伸びる中山道を歩いて、ぽっと開けた場所にある大湫宿だが、その陣容はかなり立派だ。でも、食料品が買えるお店はこの一軒だけだったように思う。気付かなかっただけかもしれないが、大井宿から先は本当に食堂どころか、店が全くない。

大湫宿を出てしばらくすると、琵琶峠に差し掛かる。どうと言うことのない峠ではあるが、ここに皇女和宮の歌碑がある。

和宮歌碑

住み馴れし 都路出でて けふいくひ

いそぐもつらき 東路のたび

京都を出てからも、御嶽宿までは、平野部を歩くことになる。しかし、御嶽宿から先は急に山道へと入る。まだまだこの先江戸まで、比較にならないほどの難所がいくつも待ち構えているが、京の都しか知らなかったお姫様にとって、御嶽から先、急に始まる山道は、文明から切り離された恐ろしい世界への入り口に感じられたことだろう。夜の女王のアリアで歌われるような、暗黒の世界にこれから足を踏み入れる、そのような心持ちでこの先の人生を迎えたのではないか、という気がする。

琵琶峠を下り、舗装路へ出るころから、様々な音が聞こえてくるようになる。はじめに聞こえてきたのは、多くの生き物の泣き叫ぶような音。音源が近づいてくると、その先に養鶏場の看板が見えた。

はじめは何の音かわからなかったのだが、ニワトリか、と思った途端に、多くのニワトリがコケコッコーと鳴いているように聞こえてくるから不思議だ。

鳴き声というのは、言語が定めているところがあると思った。はじめは犬の鳴き声かなと思ったのだ。でもなんか変だと思いながら近づいていった。そして、養鶏場か、とわかった途端にコケコッコーと聞こえ始めた。人の認識力とは、案外曖昧なところで決まっている。

犬の鳴き声と思ったことにはわけもあって、その先に犬の訓練所があると事前に知っていたからだ。訓練所なのに虐待でもしているのかなと、心配をしてしまったのだが、私の勝手な勘違いだった。

しばらくすると、その国際犬訓練所があり、時々犬が悲しそうな声でワオーンと吠えていた。外では、訓練士が一頭の犬と訓練をしていた。とても静かな自然に囲まれた環境の中で、犬たちにも良いのではないかと思った。

弁天池

そこを過ぎてしばらくすると、今度はアスファルトの上をタイヤが煙を上げてドリフトを繰り返すような音が聞こえ始めた。その音に対抗するように、音量をマックスに上げて演歌を流している民家がある。こうなると、頭の中で音楽はもう流れない。

演歌が聞こえなくなっても、ドリフトの音は大きくなってくる。地図を見てみると、どうやら近くにサーキットがあるらしい。道理で先程から中山道には不似合いの地面すれすれにまで車高を落とした、バブル期前によく見かけたシャコタン・車高短とすれ違うわけだ。東京都内で見かける確率はほぼゼロに近いが、埼玉県では今でも時々見かける。岐阜県にはまだまだ多くの車高短が生息しているようだ。

峠道で車を回すくらいなら、サーキットで思う存分走ったほうが良い。でも、中山道の琵琶峠から細久手宿の手前までは、タイヤの軋む音を聞き続けなければならない。これが平日ならそのようなこともなかったのかもしれないが、土曜であったためだろう。サーキットでは何かしらのレースが行われていたに違いない。

ニワトリの鳴き声も強烈だったが、サーキットのタイヤの音は人口音であるだけに、より一層脅威の念を呼び起こしながら耳奥に突き刺さる。

人里離れた山の中であるからこそ、中山道が手付かずに残ったとも言えるし、そのような場所でなければサーキットや養鶏場や犬の訓練施設を作ることができないこともわかる。とにかく、細久手宿までの間、しばらく頭の中でのモーツアルトはお預けとなった。

細久手宿

細久手宿

細久手宿はひっそりとしている。規模もそれほどのものでもなく立派な何かがあるというわけでもない。大湫宿から御嶽宿までの距離が遠すぎるので、後から整備されたという。観光という意味では、端から端まで五分で歩くことができる。

ただ、細久手宿には、大井宿から御嵩宿の間で、唯一宿泊できる、もと旅籠宿の大黒屋旅館がある。ここで一晩を過ごし、なにもない贅沢を味わう、というのも良いかもしれない。

西行坂から始まり、いくつもの坂を越えて、おそらく十三峠と言いながら、確実にその倍ほどの上り坂を乗り越えてきたような気がするが、もうそろそろいいかな、と思う頃、急に目の前がひらけた先に田畑が見えてきた。峠の上り下りもこれでおしまいだ。

下りきったところから、田畑の合間を蛇行しながら歩く。しばらくすると車が多く通る幹線道路に出る。その角のところに、和泉式部廟所というものがあるが、ぽつんとしていて物寂しい。

御嶽宿

軽井沢から和田峠の手前までは割となだらかな田園風景が続き、その後も下諏訪から塩尻峠の一部を除き、贄川宿の手前までは、のどかな田園風景が続く。

しかし、その後木曽路に入り、恵那のあたりで多少田畑の続く景色を楽しむことができるが、本当にひらけた平野部を感じさせる地形の端っこにようやくたどり着くのが、御嶽宿の手前、ここからだ。

御嶽宿までは幹線道路沿いの歩道を歩くが、旧宿場町の方に途中から枝分かれする。

脇本陣跡に中山道みたけ館があり、その中で休憩する。

中山道みたけ館

一階が図書館になっていて、二階が地域の歴史の展示室になっている。その中で、中山道の歴史についても触れられている。

和泉式部の人生にも触れており、最後御嶽の地で亡くなったと説明書きにあった。京の都から遠く離れ、山岳地帯に入るぎりぎりの場所が、御嶽宿になる。

京の都にかろうじて微かにつながるこの地で恋に翻弄された儚い命を終えたかと思うと、この御嶽宿がこの世の果てのように思えてきた。畿内に住んでいた人たちからすれば、不破の関をはるかに越えた最果ての地、と思うことは、当時としては自然なことに違いない。

御嶽宿から先は、黙々と車が走る道の脇の歩道を歩くことになる。中山道の大部分がこのような道のりで、また本来の姿に戻ったのだと思えば納得できる。しかし、先ほどまでの、時を超えた、不思議な気分で森の中を歩くときとは、随分と心持ちが違う。

伏見宿

伏見宿は太田の渡しを控えた江戸方の宿として栄えた様子だが、今ではほとんどその痕跡が残されていない。幹線道路が宿場跡を貫いているだけだ。

大井宿から伏見宿までおよそ四十キロ。今日は伏見宿を少し通り過ぎた可児の街に宿泊することとした。

伏見宿本陣跡

南木曽から御嶽まで続くこのルートは、手軽なトレッキングルートとしても素晴らしい。いつか今度は逆ルートで、御嶽宿から馬籠峠までを歩いてみたいと思った。