毎年お正月には箱根駅伝を見る。コースの近くに住んでいた時は、毎年三田の札の辻のところまで出かけて見ていた。多摩川を渡るあたりで準備をして、スマホで中継を見ながら札の辻まで歩く。今は離れたところに住んでいるので、テレビで見ている。お正月の二日と三日はどこにいても、このレース中だけは、なぜか毎年ずっと見てしまう。
考えてもみれば不思議なもので、人が走っているところを見ても、何も楽しいことも、面白いこともない。自分の母校だけを注目して見るわけでもない。ただただ人が走っているところをずっと見る。
一生懸命に走っているところを見ていると、後ろから押してあげたくなる。それがどのチームであっても、頑張れと思って見てしまう。
人にはそれぞれの目標があり、それが優勝の場合である場合、シード権を確保することであったりとさまざまだ。
選手はお互いに競い合っているけれども、実際には自分自身と戦っている。同じコースを同じ方向に向かって走っているけれど、戦っている相手は基本的には自分自身だ。だから、自分と重ねて、励ましたくなるのかもしれない。
生き方は人それぞれ。目標も人それぞれ。生まれ育った環境でそのスタート地点も、ゴール地点も違う。恵まれた環境の人を見て、羨んでも仕方がない。そうした人は、その環境に応じた目標が出来る。タスキを受けた場所が最下位でもめげることはない。そこから順位を上げていく楽しみがある。五人抜き、十人抜きをするという、豊臣秀吉のような生き方ができるかもしれない。前評判が高すぎると、優勝しても当然視されてしまうかもしれない。
勝てば良い、一番になれば良い、ということではない。やはり、その過程でどのように走ったか、判断したか、というところが結果につながる。その過程を新年の初めに見て、その年の自分自身のスタートを駅伝に重ねる。
人に大きな声で語れるような人生ではないけれど、自分なりに今年も頑張ろうと思う。箱根駅伝はそのようにして私の背中をそっと押してくれる。だから見てしまうのだろう。