正月の地震発生から四ヶ月半が過ぎた能登半島輪島まで週末を使って訪れてみた。東京から往復1400キロ。高岡市に泊まって輪島まで、車で向かった。
高岡市内では、歴史的建造物である古い建物の一部が損壊していることを確認したが、修理している建物は目につくものの、日常生活には支障がない。
しかし、能登半島に入り、七尾から穴水の被災地に向かう途中辺りから、壊れた家屋が目につくようになる。
能登の家の屋根には黒い瓦が黒光りしている。輝きを保つ能登瓦はまだ新しく思えるが、その下の家がくしゃっと潰れている。その光景を最初に目にした時には、自分の肺をくしゃっと押しつぶされたような痛みを感じた。
ひとつ、ふたつ、道沿いに潰れた家が方々で目につく。車が走る道はうねり、ところどころ、道にあいた穴をアスファルトで埋めて車の車輪が取られないように固めている。速度を上げると、トランクの荷物が飛び跳ねる。
高岡から二時間以上かけて輪島に着くと、そこはまだ手付かずの世界だ。潰れている家と建っている家の差は、その新しさの違いのようでもあった。
まわりがどれほど壊れていても、新しい家はそのままだ。見たところ、潰れているのは古い家ばかりだ。若い時に家を建てて、人生を終える頃になって、地震でつぶれたのだろうか。
四ヶ月半がたち、ようやく道が繋がった。街を整えていくのはこれからだ。まだ、手付かずの家々を目の前にすると、何から手をつけたら良いのかわからなくなる。
東京にいると、どこか遠くの世界で起きている出来事のようだ。頭ではわかっている。車で半日走れば東京からでも地続きだ。
報道の腕章をつけていれば、堂々と被災地の中に入って、カメラを向けることができるだろう。でも、まともな感情を持っていれば、困っている人、家を撮影することなど出来ない。
裸眼で見ることによって得るものがある。映像で繰り返し流される倒れたビルの前を通った時の、想像を凌駕する現実の光景。一瞬通り過ぎただけでも心に傷を負いかねないその惨状を前に、日々生活している人たちは、どのように感情と折り合いをつけて過ごしているのだろう。
ウクライナやパレスチナも現地に行くと激しい感情の起伏に襲われるのだろう。報道されなくなると、少しずつ忘れられていく。