旅に病で 夢は枯野を かけ廻る
朝、目が覚める。今日は良くなっているのではないか。そう思い、起き上がろうとする。しかしその瞬間、激痛とともに、昨日の続きの今日があることを思い知る。昨日の続きが今日で、今日の続きが明日。毎日が継続的に繋がり、過去が未来へと繋がっていく。過去は生まれてからそれまでの蓄積で、未来はこれからの行動で変わっていく。蓄積された腰への負担を解消するため、今日一日を帰京前、最後の一日とする。
彦根から大垣まで鉄道でおよそ三十分。歩くと四十キロ以上ある。朝七時に出ても、夜暗くなってからの到着となる。それほどの距離を、三十分、窓の外を見ながら、お殿様のように座って移動する。
米原から琵琶湖を離れ、美濃方面へと鉄道は分岐する。それほど深くはない山間を列車は抜けていく。中山道と思わしき道筋が、レールと並行して流れていく。相変わらず人は歩いていない。
東海道とは異なり、人里離れた野原を道はくねりゆく。時折鉄道と交差しながら、線路の右へ、左へ、中山道は走る。宿場のあった町の近くには、駅が設けられ、数人を乗せてまた発車する。
乗車してきた人が、車窓の眺めを遮断する。窓のスクリーンを躊躇なく下ろす。見慣れきった風景は、手元のスマホの操作にとっては、邪魔なだけだ。すぐ目の前に、美しく秋色に彩られた山々が、吸い込まれそうな青い空に広がっている。しかし、手元のスマホの中の世界で、その人は全世界の人々と繋がっている。 目に映る世界は、スマホのスクリーンの中。人は見たい景色を見る。株式市場の相場の下落が続いている。ラインの返信を見ているのか。窓の外には、美しい風景が見られぬまま、無為に流れていく。
やがて列車は、関が原に差し掛かる。そこから先はまた視界がひらけていく。山が徐々に遠ざかる。遮断されたスクリーンの外側の景色が、いつもの日本の見慣れた日常へと変わっていく。しかし、この景色も、異国からの旅行者にとっては、私にとっての山間の風景と同じ意味合いを持つ。
大垣は駅の南に城と城下町が広がる。大垣駅のすぐ北側には巨大なショッピングモールが広がる。宿泊先のホテルは、ショッピングモールの道を挟んですぐ向かいにある。
荷物を預けて、大垣城を目指す。関ヶ原の戦いで、当初石田三成が籠城を検討していた城だ。家康は北へ三キロほどの赤坂の宿あたりに陣取る。赤坂は中山道。大垣は分岐した美濃路の宿となる。
天守閣へ上ると、遠く関ヶ原まで見渡せる。今は周囲に高いビルが建ち並び、景色も遮られるが、当時は見渡す限り緑の平野が見えていたことだろう。三成は夜分に大垣城を出て、関ヶ原の南側へ大きく迂回しながら家康の行く手を遮る形で回り込む。家康はゆっくりと関ヶ原方面へ真正面から中山道に沿って隊を進める。大垣城の天守閣へ上ると、今やビルの立ち並ぶその風景に大軍が陣取る当時の陣形が重なる。
大垣城から南西方面へ少し降りたところに、奥の細道むすびの地記念館がある。松尾芭蕉は、ここ大垣で奥の細道の旅を終えた。江戸深川の家を売り、奥州、北陸を経て、最後は大垣へ。
日本橋から東海道を歩きはじめ、京の都から中山道沿いに、大垣まで。道中いたる所で芭蕉の句碑を目にし、義仲寺に眠る芭蕉の墓前を二度通り、最後は奥の細道の結びの地大垣へ。次回、中山道を目標にし、その後は奥州路にも足を向けてみたい。
腰痛がなければ、大垣で時間をとることもなく、記念館に立ち寄ることもなく、芭蕉の足跡を事細かに知ることも出来無かったと思う。そのようなことを考えると、今回の東海道五十三次から続く、一連の旅のむすびの地が、ここ大垣となったことは、偶然とはいえ感慨深い。
またいつか、この大垣を訪ねることにしたいと考え、今回の旅を終えた。