朝の散歩は、たいていの場合、妻と一緒に出かけるが、足が痛いというので一人で出かけた。いつもは二人で時々話をしながら、時には考え事をしたまま歩くのだが、新年ということもあり、何か音楽を聴きながら歩いてみようと思った。
数年前にAmazonプライムで新年の特集を流していた時に、聞こえてきたのが、あいみょんだった。私は尾崎豊と同世代だが、つまりもう五十過ぎのおじさんだ。十五の夜なんて遠い昔で、バイクを盗んだことはなかったけれど、気分は似たようなものだった。
あいみょんの詩が耳に聞こえてきた時、懐かしさを感じた。遠くで汽笛を聴きながら、といった感じで、あいみょんの曲を聴いていた。
今年の場合は、一通りAmazonのリストを、聴きながら歩いても、特に琴線に触れるものはなく、いつものコースを一周して家に戻った。
それなりに普段聞かない曲が聴けたので、それなりに満足したが、音楽を聴いていたせいか、何も残っていない。つまり、いつもは何かしら考え事をしていることに気がついた。
音楽で耳を塞いでいると、脳は音楽に気を取られるので、考えることに気が向かない。周囲の状況を見ているようで見ていないようで、何も覚えていない。
いつも鉄棒のある二箇所で懸垂を行うのだが、二回目の懸垂を行うことを忘れてしまった。
最近は多くの人が耳を音楽で塞ぎながら歩いている。スマホで目を塞ぎながら歩いてる。このリアルワールドで動いているものが、回っているものが、流れている時間があるのに、どこか遠いところの誰かと繋がることに時間を費やしている。
そんなわけで、散歩の時はできるだけ耳は塞がないで歩くことにしようと思った。